パリオリンピックが閉会した。テレビ観戦するも7時間の時差は大きく、興味のある種目はLIVEで見たいがなかなかそうはいかず。そんな中でも開会式、閉会式は眠い目をこすりながら遠い国の「今」を傍観した。
感じたのは東京五輪との違いだ。当時東京は 「世界一コンパクトな大会」にするとされたのに、運営費用が1兆6989億円にまで膨れ上がり、国と都が支出した関連経費も合わせると合計で3兆6845億円もかかった。 一方、パリオリンピックは既存施設や仮設の利用が促進され、 90億ユーロ(1兆 5千億円)と東京のそれと比較し大きく下回った。
東京五輪の開催へ向け東京中が整備されていた頃、僕はそこで生活をしていた。特に有明のアクアティックセンターは犬の散歩でよく行ったもので、基礎工事から棟上げまで工事の様子を見学した。最新の工法が採用され、技術者としては見学し甲斐のある現場だったが、閉会後の運営費はさぞかし嵩むのだろうと懸念した。その懸念はコロナ禍による無観客開催によりさらに大きくなり、閉会後のランニングコストはもとよりチケット収入さえなくなったのだ。世界中の想定外の事象とは言え、無観客で開催する是非が問われた。閉会後、組織委員会と外注先との賄賂問題も発覚し、五輪の腐敗構造も指摘された何とも後味の悪い東京五輪となった。
そんな東京五輪から3年が経過しコロナ禍も収束し、以前のような有観客で開催されたパリ五輪は華やかだった。「花の都」と表現されるが、今回は「華の都」だと感じた。パリ五輪で取り組んだSDG’sへの取り組みは専門サイトを参照してほしいが、メインスタジアムのスタット・ド・フランスをはじめとし、エッフェル塔前やコンコルド広場、ヴェルサイユ宮殿、グラン・パレなどの「花の都」の主要施設を会場として利用したことが「華」だ。これまでの歴史へのリスペクトを意気に感じるし、天晴(アッパレ)で、文化や発想の違いを痛感できた。このことがロスへ続く「建てない五輪」への大きな布石となり、商業主義五輪からの転換となるのだろう。
称すべきパリ五輪でも課題は発生した。個人的にはセーヌ川の水質浄化への取り組みが不燃焼に終わったことは残念だったのだが、世間的には選手村のアスリートの生活に課題が残ったとされる。
選手村の地下水を利用した冷房システムや壁の断熱、ブラインドの活用などで選手村のエアコン設備が不要になり、史上最も環境に優しい大会が実現できると期待されていた。しかし熱波の到来などもあり、選手側からの強い要望もありエアコンの取り付けを認めたそうだ。特にアジア圏の選手からの要望が多かったそうだが、伝統的にエアコン保有者が少ない フランスの選手でさえ同調したとある。食事も同様に地産地消にこだわり、提供される料理の80%がフランス産、さらにカーボンフットプリント削減のため野菜中心の料理を重視していて、全体の1/3がベジタリアン料理を締めたそうだ。だが、各国選手団から「肉が足りない」といった不満が相次いだため、肉や卵料理のメニューを増やすなどの対策をしたそう だ。アメリカのバスケットチームなどははなから高級ホテルへの滞在を決めており、選手村のエアコンや食事といった問題とは無縁だったようだが。
このようにコンセプト(理想)と現実は異なるようで、それは以前ここでも書いた「つまり、暮らし方」によるものだ。エアコンの設置を求めたアジア圏の選手や肉を求めた選手たちを否定することはできないが、世界的な標準をどこに定めるのかという大きな課題が浮き彫りになった。
意識の分断や生活水準の格差が拡大している世界。メダルの数は国のGDPと比例すると力説する解説者もいる中、GDPの低い国の選手や難民選手団などはこれらの課題をどう見るのだろう。彼ら、彼女らにとって、パリはきっと「華の都」に映っただろう。