日本といえば桜と富士山と言わんばかり4月はインバウンドでたいそう賑わったそうだ。季節感の無いハワイに住んでいると、これまで暮らした国々の春の風景が懐かしい。この時期、オランダではチューリップが一面の畑に咲き誇り、ドイツでは林檎の木が白い花を咲かせ、ポルトガルやメキシコシティではジャガランダ(ハカランダ)の紫色の並木道に目を奪われた。カリフォルニアに居た頃、郊外のアーモンド畑の花盛りは、まるで青森の津軽平野そのものだと感じたものだ。郷愁を誘うというのか、海外に住んでいると折に触れ日本の原風景を思い出したりするものだ。
自宅から勤務先である大学への道すがら、並木道に黄色い花が満開の時期を迎えた。密集したラッパ状の花をつけた樹木が2マイルほど続いている。桜のように花が咲き終ってから葉が出てくるのだが、樹によって咲く時期がまばらで、まばらに散っていく。このところ風の強い日も多く、咲いたと思ったら散ってしまった木も少なくない。南フランスで咲くミモザのような色をしているが、花弁はブーゲンビリアかフリージアのようで、その鮮やかな黄色はグラデーションではない。この原色とも思える黄色、そういえば子供の頃に好きだった黄色だと思い出した
神戸に隣接した小さな街で生まれ育った僕は、共働きの両親のためか、祖父母と出掛ける機会が多かった。それは祖父の仕立ての洋服の採寸にお供したり、祖母の帽子の色合わせに出かけたり、その帰路にデリカテッセンでハムを買ったり、昔ながらの焼きたてのドイツパンを買って帰るのが楽しみだった。当時、外食は特別なものだったし、間食はほとんど許されなかったから、祖父母の用事についていくことで何か美味しいものを買って帰るという一連の時間が好きだった。桜といえば祖父の職場に近い造幣局、祖母の実家に近い御所の八重桜だったし、実家の庭には初春の梅や木瓜(ボケ)、春は泰山木(タイサンボク)や木蓮(モクレン)の白い花、初夏の藤棚、夏の朝顔といったパステルカラーの花ばかりだった。それなのに濃い黄色が好きだったのは、その祖父母と出掛けた神戸元町に咲いていた黄色い花のせいだと気が付いた。
最初の日本人移民は1893年に遡り、1924年排日移民法成立まで約22万人がハワイへ渡って農地を開拓しコーヒーやサトウキビを育てた。相前後して1908年から1973年の移民船廃止まで25万人の日本人がブラジルへ海を渡った。1971年まで外務省管轄の神戸移住センターが港を見下ろす山本通にあり、移民船は神戸港から出航した。全国から集まった人たちが、ブラジルへ渡る前にポルトガル語教育を受け、渡航前の数日間を神戸で過ごしていた。これから生涯を過ごすだろうまだ見ぬ国への憧れか、センターから埠頭までの道すがらに植えられていたのがこの黄色い花を咲かせるコガネノウゼンだった。そうだ、幼少期に見た黄色、今私が見ているイエロートランペットツリー、そしてこの樹木は目の詰まった美しいハードウッドの代表格イペでもあり、ブラジルの国樹でもある。時や場所を越えて全て同じこの樹だとやっと気が付いた。